2018年初詣―人間とは貪欲にして愚かな生物―

 新年の2日は寒かったが晴天だった。先月29日から休日となり5日目だというのに少しも疲れがとれていない感じだった。(元日は?あったのだろうが朝年越しそばの残りを食べ、何時頃かレトルトカレーを食べた記憶しかない、私の新年は2日から始まった)
 やはり初詣に行かなければならないと思って10時頃ふらりと出かけた。無信心で神仏に興味が無い私としては何処でも良かった(熱心に信心されている方々に対しては申し訳なく前にお詫びしておきます。)毎年同じ神様ではと思い今年は穴場を狙うこととして、JR.の最寄り駅より一つ前の駅にある神社へお参りに行くことにした。

風は冷たかった、駅まで7~8分住宅街のせいか人通りは殆ど無かった。(住宅街というが以前は魚屋、肉屋、果物屋、蕎麦屋等個人商店があったのだが・・・今は無い、理由は?)流石に駅近くなると沢山の人々が行き交っている、親子、家族連れ、友人同士と様々だが、その服装たるや皆同じ、晴れ着と称する服装は殆ど無く、そろってダウンジャケットなるものを着ている、何のことはない、甲虫の幼虫か芋虫の行列だ、これ等がぞろぞろ歩いている。

それに混じって私も歩いている、手足の節々が痛む、首、肩、腰が疼く、こんな思いをしてまでなぜ行くのか、体力維持のためには1日5~6千歩は歩かなければならない。その為には初詣くらいしか他に行くところが無いからだ。孤独は侘びしい、他人と接すれば煩わしい、侘びしさと煩わしさ、どちらかをとるとすればやはり侘びしさの方が良い。

 人間という生物は素晴らしい、神様も仏様も皆人間が創り出したものだ。そしてそれにすがって生きている、支えてくれる杖のようなものかもしれない。人間は差別をするのが大好きだ、何でもランク付けする、あの狭い牢の中でさえ「牢名主」を選ぶ、神様や仏様にも格付けみたいなのがあるらしい。かしこくもおわします所、宮、神宮、大神宮、社、大社といったところ、神様も古いほど偉いようだし、受持も決まっているようだ、八幡神は武人。天神は知識、薬師神は健康といった風に、仏様も然り、如来、菩薩、明王、天部等々 こんな事を考えているうちに目的地に到着した。

 思っていたよりこぢんまりした八幡神社だった。参道の真ん中だけ敷石があり、後はむき出しの土だった。参拝者も少ない、さーっと突風が土埃を巻きあげる、オイオイおろしたてのジャンパーだぞ、型どおりのお参りをして倉皇とこの神社を後にした。自宅の最寄り駅を出てからは遠回りして帰ることにした、始めて通る住宅街の細い道、誰も通らない古ぼけた木造の家が建ち並んでいる、人の気配すら感じられない廃墟の街、つと公園に突き当たる。
小さな公園の大きな欅 親子らしい中年の男と3~4歳位の女の子、何の遊具も無いのに寒さに震えながらお互いに気を遣って楽しそうにしている、母親においだされたのだろう。
 奥の日が当たっている木の根元で初老の男が一人ギターを弾いている、皆侘びしい人達ばかりだ。
 自宅近くでいきなり後ろから自転車のベルを鳴らされた、ご免なさいといいながらお婆さんが自転車にのって通り過ぎた、4メートル道路なのに私は端を歩いていたのに、どうやら自宅へ到着した。
 昼近くなっていてワイフが昼飯用の握り寿司一折届けてくれた。

 また憂鬱な日生活が始まる、そして死ぬまで続く。

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