3丁目以外の夕日 ~男はつらいよ♪ 丁稚奉公編~

映画「ALWAYS 3丁目の夕日」が話題になっている。しかし夕日は3丁目だけにあるものではない。1丁目にも8丁目にも荒野にも、夕日はある。

神武景気が始まり、三種の神器、力道山の昭和30年ころ、中小企業もそれに属する労働者も、先行きの不安におびえながら、何となく終戦を実感し始めた頃でした。少し遅れるが、

私も3月で15歳となり、同月20日に中学校を卒業すると、すぐに東京に出てきて、就職した。呉服問屋の個人商店だったが、従業員は30名くらいいた。丁稚奉公だから決まった仕事は与えられない。3階建ての内部全部の掃除と、使い走り、配達、注文取り、集金と、朝6時から夜10時まで働かされ、休日といえども、織元から品物が届けばそれを仕分け、値札をつけたり、小売りから注文があれば届けたりとほとんど休みなどなかった(小売業は休日がかき入れ時)。給料はほんの体裁で、食費と保険料、税金をひかれると、1,000円くらいしか残らなかった。15歳の少年には、40歳~50歳の人達は、ものすごく大人に見えたが、特に役職も与えられず、お客にも上司にもペコペコしているのは、ただ卑屈に思えた。私があと20年勤めてもこの程度かこれ以下なのだろうか。大学出の経理担当者は、若輩でもペコペコせず、かっこよかった。これからは学歴の時代、そう思った私は、学校に行きたいと思い、何の当てもなく辞めてしまった。辛抱しない奴は駄目な人間だと罵られた。

たしかに甘かった。すぐ上の兄を口説いて、佃島のある家に下宿して仕事を探し始めたが、どこも採用してくれるところはなかった。勉強するのには時間がいる、住み込みだと自分の時間がないのは経験済みなので、通勤可のところだけを探した。当時、飯田橋の職安は、男性のみ扱っていた。(女性は、神田だったと思う)毎日職安へ行って紹介してもらうのだが全く駄目で、1ヶ月半が経過した。当時、中卒の初任給は5千円~7千円位だった。もうだめだ。疲れ果ててしまい、兄に内緒で、父宛に手紙を書いた。「志を立てたが、実行不能。精も根も尽き果てました。田舎に帰って再起をはかりたい。」そんな内容だった。投函しようと思って持って、せめて今日もう1回面接に行ってからにしようと職安に行った。 2社(給料が5千円のと7千円の)紹介されてどちらに行くかといわれ、どうせ断られるのだろうから、と7,000円のほうを選んだ。浅草橋にある玩具仲卸の会社だった。行ったら、何も聞かず、いつから出勤できるのかと聞かれ、即採用された。父への手紙はそのまま破り捨てた。一生懸命働き、高校の通信教材で勉強もした。念願の通学もできるかと思えた矢先、父が倒れたとの知らせがあった。すぐとんで帰ったが、結局、死に目に間に合わなかった。享年49歳だった。私は、母にも一歳で死に別れたので、傷痍軍人で半身不随だった父が、私を育ててくれた。父が亡くなって初めて父の有り難さが解った。  

葬儀が終わって帰ってきたが、生前の父の言葉「人の世話になるな。受けた恩は必ず返せ」が頭の中に甦り、その当時結婚していた姉のところに居候していたのだが、これ以上義兄に借りを作ることは出来ないと思い、何のあてもなく、姉のところを飛び出して、鶯谷のある家に下宿した。この家も相当貧しく、その家の息子(小学4年生)と一緒に6畳の部屋に住む。その家は底が歪んでいて、斜めになっていた。寝るときは高い方にいて寝ても、朝起きると低い方にころがっていた。

生活は極端に苦しかった。7,000円の給料から、2,500円の家賃と高校の通信教育費を引くと、3,000円しか残らないので、食費に1日100円かけられない。ものすごく無理をして30円の食塩を買い、10円のコッペパンを三個買って、塩を振りかけて食べては、水を飲んでごまかした。なおかつ体が丈夫でもなく、せっかく食べたものをそのまま下痢してしまい、余計にひもじい思いをした。

16歳の少年が、帰る故郷を失い、頼れる人もなく、働かなければすぐに飢え死にしてしまう。3度の食事をしてなお腹が空くのではなく、3度も食べられず、腹がすきすぎて飢餓の状態が何ヶ月も続いていた。現実は厳しかった。

ある時、商品を配送しての帰り道(たしか、蔵前の近く三筋町通りだったと思うが)、自転車を走らせていると、ふとハンドルの中央部に水滴がぽたぽたと落ちてきた。あれ、雨かなと思って空を見ると、薄曇りの空、雨なんてふっていない。知らず知らずに、泣きながら自転車を走らせていた、自分の涙がハンドルの中央部にしたたり落ちているのだった。心身共に疲れ果てて、どうしていいか解らなかった。死のうとも思ってなかった。そんな気力もなかったのだ。2~3日そういう状態が続いた。玩具会社の奥様が私がなんかおかしいということに気づき、「どうしたの」と声をかけてくれた。社長と3人で話して、給料を千円上げてもらって何とか救われた。その後、半年ぐらいして、その会社はつぶれた。

 その後も紆余曲折があったが、何とか自力で念願の高校、大学を卒業することが出来た。(別稿の「資格試験にすばやく確実に受かる方法」は実際の体験から習得したことを書いたものです。)その後も紆余曲折を経て現在に至ることになる。

 現在の日本も景気が減速し続け、大変な時代を迎えようとしている。その上人間同士のいたわり合いや、暖かさなども失われつつある。私が体験したようなつらさや惨めさは、体験した人にしかわからないと思う。ネットカフェ難民の方々、自分を見失わないでください。貴方を必要としている企業は必ずあるはずです。経営者の皆様、こういう人達の中にも経営者と一体となって身体をなげうつものが必ずおります。大切なパートナーは、使い捨てず、自社で育てて下さい。

沈みゆく夕日は、朝日となって昇ってくることを忘れないで下さい。

あの頃、私が見た夕日は何丁目の夕日だったのでしょうか。

― 「男はつらいよ」 主題歌より ―♪♪♪

 あても無いのにあるよな素振り それじゃあ行くぜと風の中

止めに来るかとあと振りかえりゃ 誰も来ないで汽車が来る

男の人生一人旅 泣くな嘆くな 泣くな嘆くな 影法師 影法師                                                                                                                   ♪♪♪

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カテゴリー: 男はつらいよシリーズ タグ: パーマリンク