”限りある妄想”

宇宙に歪みでもできたのだろうか?近年の地球は、これまで過ごしてきた地球とは急に変化してきているように思う。豪雨、猛暑、豪雪、地震、寒波と自然変動がこれまでの知識では推察できない様な激しさを増し、世界各地で大きな被害をもたらしている。
 人心も正気を失い、あちらこちらで些細なことから又一方的に狂ったように戦争が勃発している。
 義妹の納骨日だった。その日も天候は不順だった。天気予報では、曇り、晴れ、時々雨、というどんな状態にも当てはまる予報だった。コロナの発生以後多数の人達が集合するのを禁止され、それが解消された後も、結婚式や葬儀等は縮小されたまま今日まで続いているような感じで推移してきている。

 義妹の納骨についても参加者が少なくて、なんとなく哀れでもあった。義妹の死亡を心から悲しんで参加して下さる方々がもっと沢山いるのに、その方々に通知もせず本当に身内だけで済ませて仕舞うことがなんとなく心苦しく、墓地に到着してから他の人の墓標を見て歩きながら一人心の中で泣いた。

 事情があって、49日の法要と納骨式とを一緒に行う事になっていた。約束の時間が来て、僧侶も到着されたとのことで、式場に入って参列者一同そろったところで、若い僧侶が開会を宣し、僧侶の指示のもとに、礼拝から読経が始まった。僧侶はめがねを掛けていたがそのめがねの度が合わないらしく経典(経書)を開いておもいっきり眼を近づけて大声を張り上げて読んでいる、時々つかえる、宗教は何の興味もない私には、経の名前も意味も解らない、なんまんだぶ、なんまんだぶ、と言うのがいくつか入っているのが解る程度だ。

 ようやく終わって今度は教訓(諭し)らしき事をなんとなくキザな格好しながら、阿弥陀如来様が導いて下さるのでそのお導きによって救われる?様な事を説かれていたが私はあまり聞いていなくて、世の輪廻?というかこの世というものを漠然と考えていた。

 例えば、般若心経では、すべてが「無」を説いているように思われる。つまりどの理を持ってしてもこの世には正解がないのではないのか、というようなことを漠然と考えていた。年齢的にいって私もすぐこのように扱われる日が近い、ここにいる身内も管理事務所の職員(若くてかわいい娘)も、この僧侶も、納骨を行う若者も、この八王子という所に来ている各種学校の生徒も、すれ違った車両通行者も、いや大げさに言えば、現在動き回っている人々は百年後には色々な形で、この地上からいなくなる運命に有るということだ。

落語の「死神」に言わせれば、私のロウソクはもう消えかかっているということだ。
 ある宗教?では、死んでも必ず生き返ってくる、と信じているのがあるらしい。
 私はどう説得されても死んだら生き返ってくとは信じられない。まあどうでも良いことだが、むきになっても始まるまい。

 この広い墓地はいつまで墓地になっているのか?この辺はまだ人家が少ないが、近くに「道の駅」があり、2~3年中に大きなスーパーが開店する予定だと聞いている。 地形も人間も住居もこれからは大きく変わらなければならない、又変わるはずだ。
 
古典の有名な随筆の中にも、これらを指摘しているものが多くある。
 紙面の都合上記載することは省略するが、一部だけをあげると
 卜部兼好(吉田兼好・・・兼好法師)の、人の亡き後ばかりの中に
 ”果ては嵐にむせびし松も千年を待たで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ
その形だになくなりぬるぞ悲しき ”
というのがある。
 こんなことを考えていたら、自分のこしきかたのなんと短く愚かしいものであったことか、無性にやるせなくなってきた。

 いつの間にか女房始め参加者は、皆タクシーで帰っていった後だった。
 今日は誰とも言葉を交わしたくない、奮発して一人で精進落としでもやるか、と思いながら待っていたタクシーに乗り込んだ。

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