愛のむきだし~コリント人への手紙第13章

園子音監督「愛のむきだし」という映画(4時間弱)をDVDで見ました。予想外におもしろかったです。

園監督の友人でもあり、かつて盗撮界のカリスマとして崇められた男が、新興宗教にはまってしまった妹を教団から力ずくで奪い返したという実話をベースに、罪と罰、欲望と禁欲、キリストと新興宗教、家族と共同体など、さまざまな要素を複雑に絡み合わせて完成させた長篇大作映画です。

映画の一場面で、改心をするよう妹を拉致して監禁し、妹は食べものを進めても盗撮マニアの兄を軽蔑していて、もちろん反抗して絶対何日も何も食べようとしないので、兄も妹が食べるまでは根性で食べない日が数日続いた後、妹が兄から逃げようとして、兄が妹を捕まえようとして、格闘になり、その格闘中、砂浜での波打ち際で、妹(満島ひかり)が兄の上に馬乗りになり、兄のむなぐらを捕まえながら、鬼気迫る表情で怒濤のように、「コリント人への手紙第13章全文」を、一気にまくし立てるという、その一場面が、最高におもしろく感じました。

園監督曰くキリストとは「ジョン・レノンみたいなもの。たぶんジョン・レノンもキリストをライバル視してたと思うけど、史上初のロックスターはキリストだと思う。若くして死んだっていうのもロックスター的だし」というように宗教としてというより、文学的(=ロック的)に扱っているというのがおもしろかったです。

「コリント人への第一の手紙 第13章(CHAPTER 13)

たとえわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。

たとえまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

たとえまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。

自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

私達は、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 」

このコリント人への手紙第13章は、これだけ殺伐とした現在、興味深いです。(私はキリスト教徒にはなり得ないですが、、。)

日本人にとっても、愛というと「?」に感じるけども、親子や家族間の愛情、友情、義理人情、チームワーク、情け、そういうものがないがしろにされつつある、しかし一部にはまだまだ根強くあるし、決してなくなってはいない現在、人間の根底を突き動かすものは、やはり相手に対する思いやり=愛(日本語で言うと色々な言い回しがある、前述)である、と思ったりもする瞬間でありました。

 

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