解雇を考える前に-労働基準法第18条の2-

『常連客、H氏のつぶやきより』
 「いやあ~うちのQ(従業員)には困ったものだよ、解雇するしか無いかなぁ」 D氏が薄くなった頭をかきながら話し出した。彼は、ある薬品メ-カ-の健康食品を小売店に卸している、従業員を10人ほど抱えている小規模事業主である。
 ここは喫茶「情報塾」である。ボックス席は、カップルやら女子高生やら暇な主婦達でにぎわっているが、ここカウンタ-では、常連達が6人ほど止まり木に座っていた、

ひとしきり雑談が続いた後でD氏が話し出したのである、彼の話によると、従業員のQは、入社当時はまじめだったが、だんだん他の従業員とうまく行かないようになり、取引先の評判も悪く、仕事にミスが目立ちその都度注意するのだが少しも効き目がないのだという。
 「そんなの解雇しちゃえよ」、「給料が安いからじゃない?」、「好きな人が出来たんだろう」、「社長職を交代してやれよ」皆自分に直接関係無いから、勝手なことを言っていたが、言葉がとぎれると自然に皆の視線がマスタ-の方に向けられた。
 そう、ここの喫茶「情報塾」のマスターは本業が、社労士・行政書士で豊富な知識と経験の持ち主であり、顧問先から厚い信頼を寄せられている。しかし、彼はここ「情報塾」では本業の話をするのは好まない。本業から息抜きをするために、この「情報塾」を運営しているのだ。
 私達の視線に気が付いたマスターは、カウンターの右端においてある果物かごの中からリンゴを1個掴んで私達に見せながら言った。
 「皆さんは、このリンゴを見てどう思いますか、感じたままを言って見てください。」 「美味しそうだな、よだれがでてくるよ」少しオーバーだったが私は言った。マスターは私に優しい笑顔を向けると軽くうなずいてから、他の人に視線を移した。「健康食品だよ、昔から医者いらずと言うじゃないか」「夕焼けに映える初秋の山々だな、故郷を思い出すよ」「それなら田舎にいた頃付き合っていたほっぺの赤い子を思い出すよ」「私はセザンヌだな」「豚の餌だよ」、それぞれが思いついたままを口にした。「豚の餌」といったのはJ氏で、彼は貿易会社に勤務しているとのことだが、ニヒルでものごとを斜め上から見ている様な性格だ。彼にはこの様なところより場末のスナックが似合いそうだがなぜかここに顔を出している。「ところで正解は誰なんだ」私は聞いた。

 「みんな正解ですよ、皆さんの言ったことはすべて正しいのです。」
すべてが正しいと言うのはどういうことなのだろうか、皆が一様にマスターを見つめた。

 「すべてのものは決して単純ではありません、このリンゴでさえ今皆さんが答えたことすべての要素を含んでいるのです、探せばもっと他の要素がたくさん有ります、リンゴにしてこれだけ複雑なのです、まして人間となればもっともっと無限に近い要素を備えております、Dさんは、Q君が備えている未知の素質を引き出す努力をしなくてはなりません。もう一度二人きりでゆっくり話し合ってごらんなさい。」

 「話し合うと言ってもなあ」D氏はもう話すことなんか何もないよ、と言った表情でうなずいた。

 「話し合いというのは自分の考えを押しつけるのではなくまた相手の言いなりになるものでもありません、話し合うということは、お互いの短所を補い長所を引き出すものなのです、帰られたらQ君とゆっくり話し合ってごらんなさい、くれぐれも先入観を持たず相手の言うことを良く聞いて、自分のことにもよく耳をかたむけて頂くようにしてご覧なさい、きっとうまくゆくと思いますよ」

 D氏はあまり期待していないようだったが、それでもそうしてみるといって帰っていった。

 それから数日後、私がここ喫茶「情報塾」でマスターと雑談していると、D氏が飛び込んできて開口一番「マスターうまくいきましたよ」と、うれしそうに言った。マスターは例の照れくさそうな笑いを浮かべていた。
「いやあ~あれからQとよく話し合ってみたら彼も自分の欠点を素直に反省して、私の立場も良く理解してくれたらしく、もう一度考え直すといってくれました」次の日からQは、率先して仕事に集中するようになり、他の従業員達との折り合いも良く、お得意先とのトラブルも無くなり、すっかり入社当時の彼に戻ったのだという。D氏は一頻りQ君との話し合いの結果が満足したものだったことを強調すると、飲んだコーヒー代を払うのを忘れてあたふたと帰っていった。
 マスターは、淡々として食器類を洗っている、あのときマスターは、このことを予測してあのような話し合いを進めたのだろうか、だとすれば、何と先見の明が有る人なのだろう、そういえば彼は常に人の一歩先を読んで物事を判断すると誰かに聞いたことがある。
私は畏敬の念をもって尋ねた。「マスターはこのことを予測してD氏に話し合いをすすめたのですか」
 これに対して返ってきた言葉は意外な言葉だった。
「私はたぶんQ君が辞めて行くと思っていましたよ」

『常連客、H氏のつぶやきより  end』

注 : 本業では、より具体的で実践的なアドバイスを行っており、解雇に至る事例はほぼありません。(喫茶「情報塾」店員K)

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